
歴史?エピソード
Episode
統合前の『県立広島女子大学』『広島県立大学』について,
創立の経緯や思い出のエピソードなどをご紹介します。
創立の経緯や思い出のエピソードなどをご紹介します。
県立広島女子大学
2000年に発行された記念誌「県立広島女子大学 ~写真で綴る80年のあゆみ」より,
県立広島女子大学のあゆみを4つの章に分けてご紹介します。
県立広島女子大学のあゆみを4つの章に分けてご紹介します。
第1章 専攻科時代
~女子高等教育の揺籃期~

大正9年,広島県立広島高等女学校家事補習専攻科が設置された。その背景には,女子高等教育制度に大幅な改革促進が行われたことと,高等女学校卒業者の中に,一層の高等教育を希望する者が増加したこととがあった。当初,県立高女の校舎?寄宿舎の一部を使用したが,大正9年9月に2階建ての専攻科教室が新築され,それを「白塔」と呼んだ。その校舎に因み,学友会機関誌名を「白塔」とした。大正10年には内容の充実を図って専攻科と改称され,名実ともに体制が整った。家事補習専攻科の教育は,総合的教養的な高等教育という性格を持ち,専攻科の教育は,良妻賢母教育と職業に進出可能な専門教育というふたつの要素を持っていた。
大正11年の専攻科第1回卒業生7名の内,中等教員家事科検定試験予備試験に2名,本試験に1名の合格者を出し,大正12年には家事科予備試験に1名,本試験に2名,裁縫科本試験に3名が合格,大正13年には裁縫科本試験に2名が合格している。この成績が文部省に認められ,大正13年には,7月に師範学校中等高等女学校無試験検定の内,第1部甲類卒業生に「家事科」,乙類卒業者に「裁縫科」の無試験検定が認可された。第2部は大正15年に国語科本試験に1名,予備試験に1名,昭和2年には予備試験に5名が合格し,昭和3年3月に「国語科」の無試験検定が認可された。
専攻科の校章は真?善?美を象徴したT?G?Bを組み合わせたデザインである。
大正11年の専攻科第1回卒業生7名の内,中等教員家事科検定試験予備試験に2名,本試験に1名の合格者を出し,大正12年には家事科予備試験に1名,本試験に2名,裁縫科本試験に3名が合格,大正13年には裁縫科本試験に2名が合格している。この成績が文部省に認められ,大正13年には,7月に師範学校中等高等女学校無試験検定の内,第1部甲類卒業生に「家事科」,乙類卒業者に「裁縫科」の無試験検定が認可された。第2部は大正15年に国語科本試験に1名,予備試験に1名,昭和2年には予備試験に5名が合格し,昭和3年3月に「国語科」の無試験検定が認可された。
専攻科の校章は真?善?美を象徴したT?G?Bを組み合わせたデザインである。




あの日あの時
「専攻科時代の思い出」
「専攻科時代の思い出」
家事補習専攻科2期生
広島県女に専攻科が開設された当時は校舎は県女と同居,講師陣も斉藤校長先生を始め,専任の先生の他に本校の先生数人と其の他に高等師範学校と高等工業学校の教授数人が,講師として出張されていました。1学年の時は50人位のクラスでしたが2学年になって専門科目に分かれて家事科と裁縫科になりました。その後中等学校免許取得の為文検受験の独自の勉強も大へんでした。
勉強以外の運動会や遠足も思い出の一つです。当時高松宮殿下が江田島の海軍兵学校に御在学中で宇品港から見学に行き広大な敷地と,学舎に驚いたものです。
第2章 女子専門学校時代
~女子高等教育の実践~

福岡,大阪,宮城,京都に次ぐ5番目の公立女子専門学校として,昭和3年4月に開校した。教育?研究活動も専攻別に専門的な深まりを見せ,研究発表,卒業論文,口述試験など意欲的に実践されている。
設立時の認可条件であった校舎の建築は,幾多の運動が実を結び,昭和9年12月20日に完成した。昭和10年5月10日,新校舎落成式が行われ,校歌が制定された。同窓会より校旗が寄贈され,校章は梅花のデザインとなった。
新校舎での活動はより一層の充実を見たが,昭和15年秋以降は,戦時色の強い学校生活となった。専攻科時代から名称を引き継いだ『白塔』は学術研究?文芸を内容として盛んであったが,第15号(昭和17年)をもって終わった。昭和18年3月に行われた全日本学徒体育振興会主催第2回「大学高等専門学校行軍関西大会」で優勝するなど,戦時下の学校生活も活発であった。一方で,勤労奉仕,学徒動員,繰り上げ卒業など学業返上の厳しい時代でもあった。
戦後はまず校舎の再建から始まり,復興のための募金活動などに全学をあげて取り組んだ。教育?研究活動も徐々に復興し,昭和22年10月「広島女専新聞」第1号が発行されたが,トップ見出し記事は「新生への胎動 広島女子大学実現を期す」で,新たな展開を希望した内容になっている。
学制移行期の措置として,昭和24年その年だけ別科(1年制)が設置された。
設立時の認可条件であった校舎の建築は,幾多の運動が実を結び,昭和9年12月20日に完成した。昭和10年5月10日,新校舎落成式が行われ,校歌が制定された。同窓会より校旗が寄贈され,校章は梅花のデザインとなった。
新校舎での活動はより一層の充実を見たが,昭和15年秋以降は,戦時色の強い学校生活となった。専攻科時代から名称を引き継いだ『白塔』は学術研究?文芸を内容として盛んであったが,第15号(昭和17年)をもって終わった。昭和18年3月に行われた全日本学徒体育振興会主催第2回「大学高等専門学校行軍関西大会」で優勝するなど,戦時下の学校生活も活発であった。一方で,勤労奉仕,学徒動員,繰り上げ卒業など学業返上の厳しい時代でもあった。
戦後はまず校舎の再建から始まり,復興のための募金活動などに全学をあげて取り組んだ。教育?研究活動も徐々に復興し,昭和22年10月「広島女専新聞」第1号が発行されたが,トップ見出し記事は「新生への胎動 広島女子大学実現を期す」で,新たな展開を希望した内容になっている。
学制移行期の措置として,昭和24年その年だけ別科(1年制)が設置された。



昭和16年(1941)





昭和10年(1935)頃

昭和17年(1942)頃
あの日あの時
「女専時代の思い出」
「女専時代の思い出」
女専4期国文科
昭和4年入学7年卒業。広島県女専攻科が女専に昇格して間もない頃で専攻科時代の校舎をそのまま借用。新校地は宇品の現在地に確保されてはいたが苺畑のままであった。中町の校地は周囲を知事,副知事の公舎,控訴院,国泰寺,東寺町の寺々に囲まれた閑静な界隈。東西の校門をくぐり右手に行けば県女生の昇降口,左手にとれば女専生の昇降口。風紀係がいて厳しかった県女から国文科に入学すると